先日の中国旅行で、常志強(じょう・しきょう)さん(=78歳)の証言を聞いてきました。本当は南京事件の記念館に行くはずだったのに、記念館は何と6月末から来年12月12日まで展示拡張のための工事中だというではありませんか・・・。大ショックでしたが、そのかわわり、地元の旅行社や記念館の館長、役所の協力を得て、証言を聞くことができました(9月8日南京市内にて)。
常さんは、時折涙で声を詰まらせながら、通訳を交えて3時間近く休憩もせずで語ってくれました。ほかの中国旅行で見たり感じたことも紹介したいのですが、いっぺんにはできないので近日中ってことで・・・。まず、南京にいくことが中国旅行の最大の目的だったので、勘弁してください。
では、以下、聞いてきた証言です。
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南京事件(1937年12月13日に日本軍が南京を占領したことにともなう、その前後の期間の、南京市内でおこなわれた虐殺・略奪・暴行・強姦などの総称)のとき、私は9歳だった。家族は10人。そのうち6人が1日のうちに日本軍に殺された。その悲劇を紹介したい。
家族は私と、両親と姉一人、弟は4人で一番下の弟はまだ小さかった。それに祖母と曾祖母がいた。父は夫子廟(=ふうしびょう。南京城内の南部にある)の近くで雑貨店をしていた。豊かではなかったが、父の収入に家計はささえられていた。
日本軍が8月に上海を占領した後、(南京への)空襲がひどかった。焼夷弾が家から0・5キロほど離れたところに落ちて火事になったりした。商業の中心地だったが、民家が焼き払われた。後で廃墟と化した街を見に行った。たくさんの人が死んでいた。子どもを抱えたお母さんが黒くこげて焼き殺されていた。腕や足がなくなった死体も見た。
空襲は頻繁になり、お金持ちの人は南京から出て行った。また、一部の人は、近くの農村に出て行った。国民党の首都は重慶に移っていった。一般市民が逃げ込むところとしては、南京城内に国際難民区(【おさかな注】安全区ともいう)というのがつくられた。外国の大使館や教会、大学などがあるところを中心につくられた。
私の祖母は60歳、曾祖母は70歳あまりで、逃げて連れて行こうと思っても連れて行けなかった。祖母と曾祖母はやがて、「私たちをおいて、子どものために逃げて安全なところへ」と話した。両親は涙し、私も涙を流した。難民区へ行こうと決めた。私たちは、二人のおばあさん(祖母と曾祖母)と別れた。
しかし、内橋(ないきょう)の近くで国民党が交通規制をしていて、先へ進ませてくれない。何回も頼んだが通してくれず、親切な人の家に泊めてもらうことになった。しかし中華門(南京城南部にある門)が攻撃され、爆音が聞こえる。近くの防空壕に逃げた。逃げて三十分後、砲撃の音が静かになってきた。私たちは外に出た。南京城が占領されたのではと思ったら、大通りから「助けて!」という声が聞こえてきた。日本軍も間近に迫ってきていた。銃剣を持ち、発砲してきた。人が何人か倒れたが、こわくても人だかりで行き詰まり、すすむことができない。後ろは行き止まりになっており、逃げ道はなかった。日本軍は市民に近づくと、銃剣で直接刺してきた。男性が子どもや妻を後ろにして、自分は前に出て守ろうと抵抗する姿が見られた。ある背の高い頑強な体格の男は、銃剣で日本兵に胸を刺された。その銃剣を男はひっぱった。しかし別の日本兵が刀でその男の頭を真っ二つにしてしまった。
殺されて倒れて、殺されて倒れて、たくさんの人が殺された。人ごみの中で、(一番下の弟を除く)3人の弟がどこへいったかわからなくなった。母は一番下の弟を抱えて後ろへ下がったが、日本兵が来て胸を刺した。母は子どもを抱えて立ち上がろうとした。姉は「お母さんを刺さないで!刺さないで!」と叫んだ。母は何とか立ち上がったが、姉は日本兵に五箇所刺され、母のそばに倒れこんだ。母は銃剣を無理やりひっぱり、(刃で手をけがして)手が血だらけになった。
私も「お母さんを刺さないで!」といった。しかしお母さんはもう一度胸を刺され、倒れてしまった。一番下の弟は地面に落ちてしまい、お尻を銃剣でさされた。日本兵はズボンを持って、別のところへその弟を放り投げてしまった。私はその一番下の弟を助けようとして、上に覆いかぶさった。すると見失った3人の弟が母のところに来た。日本兵は母の体を何度も何度も刺した。3人の弟は母を守ろうと抵抗した。銃剣の帯をつかんだり、手をかじったりした。しかし別の日本兵が来て、4歳の弟を刺し殺して放り投げた。他の二人も刺そうとした。私は早く逃げよう、早く逃げようといったが、意識を失った。
目が覚めると、あたりは死体と血だらけだった。三人の弟は死んでいた。姉は重傷だったが生きていた。私は母のところにいった。呼んでも母は何も言わず、涙だけを流していた。母からはまだ血が吹き出ていた。私は母の襟をはずし、傷口を手で押さえた。見ると、母は目だけがある方向を見ている。一番下の弟を心配していることがわかった。一番下の弟が泣いている方向へ行こうとしたが、死体でいっぱいでなかなかすすめない。死体を引っ張ったり死体をよけて遠回りをして、弟のところへたどりついた。弟の名前を呼んだ。弟は私に気がついた。しかし全身血だらけだった。弟を私は抱きかかえた。母のところへ連れて行った。母はおっぱいをあげようとしたが、血が傷から湧き出てくる。私は傷を押さえ、「おかあさん、がまんして、がまんして」といった。まもなく母は、弟に授乳しながら死んでしまった。私は「目を覚まして!」と言い続けた。
最初はお母さんがどうなったのかよくわからなかった。疲れて眠ってしまったのかと思ったり、意識不明になってしまったのかとも思い、「お母さん、目を覚まして!」といって泣きながら母の体をゆすった。母は死んでしまったのだとようやくわかってから、今度は父を探した。そして父を見つけた。ひざまづいて両手で顔を覆っている父を見つけた。
父の背中に傷があった。しかし指で触ってみたが、切りつけたような傷はなかった。父の体をゆすったら倒れてしまった。父の口からたくさんの血が噴き出した。それで射殺されたらしいことがわかった。次に姉のところへ戻った。姉に父が射殺されたことを告げた。
姉と私は、「日本軍がまた来るだろう」と、近くの建物のベッドの下に逃げ込んだ。ベッドの下から様子を伺うと、日本兵が死体を物色していた。時計や指輪などを取っていった。私たちの近くにも来たが、日本兵は詳しく調べなかったので助かった。
父と母と、4人の弟が死んでしまった。姉と私はベッドの下で鳴き続け、いつの間にか眠ってしまった。翌日目が覚めると、外で女性の泣き声がする。二つに頭を割られた男性の妻だった。一人、子どもを連れていた。難民区へ向かおうとしたが、私と姉は二日間何も食べていなかった。その女性は「ごはんを食べましょう」といって自分の家に案内してくれた。その女性の家に、また日本兵がやってきた。日本兵はごはんをつくっているふたを開けて中身を確かめ、つぎにその女性を外に連れて行き、強姦しようとした。女性の子どもは母親の足をつかんだ。日本兵は子どもを蹴飛ばした。女性を無理やりつれていき、強姦した。
また、別の日本兵が私の姉を見つけた。姉はまだ12歳だった。姉を無理やり連れて行こうとしたが、姉は重傷を負っていたので抵抗し切れずに強姦された。連れて行かれるときの、「助けて、お母さん!」という姉の声を、いまもはっきりと覚えている。決して忘れない。女性が重傷の姉を連れて帰ってきたが、泣いていた。私は悲しくて、日本軍への憎しみでいっぱいになった。
難民区へ行こうと思ったが、その前に一番下の弟が生きているか確かめようと思った。母の乳を飲みながら静かになったので死んだのだと思ったが、もしかしたら死んでいなかったのに死んだと思っただけかもしれないと思った。しかし「確かめるために戻るわけにはいかない、間に合わない」と女性が言った。難民区に向かう途中、女性が裸にされて刺され、内臓が飛び出しているのも見た。
4人は安全区の外についたが、門は閉まっていた。難民が多くて入れないらしかった。銃剣を持った日本兵が迫ってきた。市民が、日本兵が近くに迫っていることを訴えると門が開いた。私たちは難民区に入ることができた。
2日ほどして、突然日本兵が難民区に入ってきた。部屋から追い出し、男性と女性に分けた。男性は家族に確認してもらえないと市民だと認められず、敗残兵の容疑者とされ、連れて行かれた。女性が子どもを肩車してお父さんを確認させようとする姿が見られた。日本兵は家族だと確認させるために男性を台の上につぎつぎ立たせたりしたが、確認作業はほんの数秒ずつで、強制的に連行された。翌日の夜、ある男性が逃げ戻ってきたが、下関(シャーカン。南京城北西部にある把江門(ゆうこうもん)を出たところにあり、揚子江に面したところ)に連れて行かれて、ほとんどが射殺されたり、切り殺された後に揚子江に投げ込まれたということだった。揚子江は血で赤く染まったという。このような集団虐殺をしたところは全部で13箇所あり、現在では記念碑が立っている。
難民区に私たちは二週間ほどいた。一番下の弟が気になったが、遺体はすでになく、弟のくつだけを見つけた。その弟らしい子どもが死んだことを、人から教えてもらった。
おばあちゃんのところに戻った。生活は苦しかった。金持ちの人は南京から逃げて、残されたのは普通の市民ばかりだった。年をとった祖母と曾祖母は相次いで死んだ。その苦労は、一言では言い表せない。
1943年から44年ごろ、姉は原因不明の伝染病にかかり、死んでしまった。紫色のじんましんのようなものが体にできて、死んでしまった。現在では当時、第100軍の日本軍が南京の中央病院で731部隊のように細菌のテストをやっていたことがわかってきている。姉はそのテストの犠牲になったのではないかと思っている。
難民区は25万人を助けたといわれている。
思い出すと悲しみでいっぱいになるので、証言を97年まではしなかった。南京大虐殺の記念館ができても、その門をくぐることはできなかった。
1997年ごろ、家のテレビで、日本の右翼が大虐殺は捏造で、30万人も殺されていないといいはじめた。私は怒ってきた。私の父と母、弟は日本軍に直接殺されたのだ。日本の右翼がなぜウソをいうのかわからない。私の家族が殺されたのは事実だ。もう黙ってはいられないと思った。
私は憎しみで生存者として語り継ごうと決意した。しかし、私の考えは変わってきた。日本軍は悪い。しかし日本で平和を追求する人たち、平和を愛する人たちがいることがわかってきたのだ。最初は、日本人や平和に対する考えは広くなかった。しかしナガサキやヒロシマも訪問し、私の考えは別の角度からのものになった。お互いに隣国同士発展していけば、それはよいことだと思う。靖国神社は戦犯をまつっている。侵略戦争だったということを否定していると思う。戦犯は、たくさんの中国人を殺したのに、英雄、神様として祭られていることが許せない。
南京大虐殺の生存者(幸存者)は、1796人。そのうちいまも生きているのは400人ほどになってしまった。
歴史のことを若い人に学んでほしい。学ばなければ、中国の若い人と友好を結ぶのは難しい。憎しみが友好の中で解けていくことで、本当の友好をつくっていくことができると思う。歴史を知ることは、将来の平和を築くために大事だと思う。
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