いのちが軽んじられる社会だと思う。
人を傷つけることや人の命を奪う痛みはもちろん、自分自身の命をも軽んじてしまう、そういう風潮が日に日に強まっている気がする。ことわっておきたいのは、自殺した人間をせめる気はない。自殺がこんなに頻繁におこるのは、社会にかならず責任があるだろうと考えるからだ。ただ、人を殺した人間を免罪するつもりは毛頭ないが・・・。
そういえば昨年のいまごろは、高校生になってから女子高生がつめたくなったといって、男子がその女子高生を自宅までいって刺し殺したという事件があった。姉妹のマンションに忍び込んで刺殺し、放火したという事件もあった。
子どもが家に放火するという事件があいつぎ、実際に家族を焼き殺した事件も発生した。そういえば、大阪の学生などがからんだ集団リンチ殺人事件も今年はありましたね。
そして、あいついだいじめ自殺。
先日は薬学生が二人、「人生に悔いはない」と自殺してしまいました。
なんでこんな世の中になってしまったのだろう。原因は一様ではないと思います。事件ひとつひとつに個別の原因があるだろうからです。でも、間違いがないのは、これら命を軽んじてしまう傾向を生み出すその要因に、①教育、②政治の責任、③マスコミや経済界の責任、④家庭、⑤大人の責任があると思います。
すべてにくわしいことを述べる力量も知識もありませんので、とりあえず教育に対して、自分のいいたいことをいいたいと思います。僕が考える教育の問題点は、下記の通りです。
※ただし、個別学校や個別教師の努力を否定するものではなく、あくまで学校全体(とくに中学校、高校)の傾向としての話です。
■1■進学と就職に重きが置かれ、知識の詰め込みを押し付ける教育。
とても数年では、常人には理解できない学習内容を、頭の中にたたきこみ、「できる」ようになれと強要される。少なくない高校で、大学へ行くことが最大の目標とされる。
■2■情報も与えずに進路を決めろと迫る進路指導。
高校生や中学生にほとんど社会経験などあるはずもないのに、必要な職業の情報(仕事の内容、働いている人たちの声、労働条件など)をほとんど与えず、「進路を決めろ」と迫る矛盾した進路指導。これで責任ある社会人としてゆくゆくは育てというのだから勝手すぎる。教師は進路指導で得意科目の話と志望校の話、授業・生活態度の話しかほとんどしておらず、生徒が自分の夢を語り、その相談にのる姿はほとんどない。
■3■行動監視型の管理教育
「協力」「協調」という名の管理教育。出る杭は打たれる。個別教師の努力、個別学校の努力は別として、日本全体としては管理型教育だと思う。人格の形成、個別生徒の成長をはかるより、決められた枠の中で生きることを要求する傾向が強い。「個性を発揮しろ」
「もっと積極的に発表しろ」といいながら、普段は学校や教師、校則への不満や不平は無視するか、たたきつぶして管理する。一方で管理してたたいておきながら、他方で「個性を発揮」しろ「積極的に発表」しろという教師の姿が見られることもあるが、矛盾している。結局、学校が要求する正しい生徒の姿は、本音を押し隠し、不平不満を押し殺し、学校の指導に積極的に従う「イエスマン」として生きることである。
洪水のようにおしよせる勉強量のおかげで、勉強はやがて個人としての成長、世界観や人格の形成、学力の向上、社会に出るための準備というよりも、就職や資格取得、受験のための道具へと一面化していく。これは否定できない重大な一側面だろう。そして、これら■1■~■3■の結果として、なぜ勉強しなければいけないのか(あるいは、なぜこんなに詰め込まなきゃいけないのか)わからないという疑問が多くの生徒の胸の中に当然生じるが、その問いに答えられるものはほとんどいないだろう。
極度なストレスに耐え、決められたルールの中で抑圧されながら、洪水のような勉強量に耐え、生きることを強要される。
それにしても不思議に思うのは、高校では社会に出る人間も多いだろうというのに、僕の過ごした高校が進学校だったからか、職業の喜びだの、働いている実情だのを聞く機会は皆無だということだ。しかも、進学する先の大学が、具体的にどのような特色があるだの、そういう話をされたことは一度もない。僕の経験では、保護者を交えての面談は、成績の話、得意・不得意科目の話、授業や生活態度。たったこれだけである。進路は志望校の話、志望学部の話をすれば、もうそれだけで終了していた。
こうした状況下で、抑圧されながら高校生活を送って、自ら「これこそ自分が選んだ価値ある人生だ」というものを、一人ひとりの生徒がつかみとることができるだろうか? 価値ある人生(少なくとも人生の方向性)を見いだせなければ、自分の命について大切だと感じられない人間が増えてもおかしくない。
「このまま生きていて意味があるのか」とまで思わなくても、こんな枠にはめられた生き方なんてできるかと思って反発する人間が出てきてもおかしくはないだろう。とくに青少年期、「自分は何のために生まれてきたのか」「何のために生きるのか」という疑問を持ち、悩む人は少なくないはずだ。しかしこの時期に「意味ある生き方」をしている先輩の話を聞いた人は、ほとんどなく、生き方を模索する青少年に、そのヒントを与える場には、高校や中学は、まるでなっていない。
つまり僕がいいたいのは、人生に意味を与え、「お前はかけがえのない、唯一の存在なんだ」と実感できるよう促す教育がなされていない。これが一番の大きな問題だということだ。自分の人生や存在、命を大切だと思えないで、他人の人生や存在、命を大切なものだと思えるだろうか?
こうした中で、命の大切さ、人生の大切さがどんどん尊いものではなく、相対的なものにかわっていく。つまり絶対守るべきものではなく、守ったほうがいいものへとなってしまい、とりわけ、人生の悩みや困難、ストレスにぶつかったときに、命を放棄する、もしくは相手の命を奪う、そういう行動へとつながってしまうのではないかと思う。
国連こども人権委員会は1998年、日本の教育システムがあまりに競争的なため、子どもたちから遊ぶ時間やからだを動かす時間、休む時間を奪い、子どもたちに強いストレスを与えていること、それが子どもたちに発達上のゆがみを与え、からだや精神の健康に悪影響を与えていると指摘し、適切な処置をとるよう勧告した。この勧告におさかなもつよくうなずかざるを得ません。
かなり荒削りですが、まあ、ご勘弁を。また気が向いたら勉強します。
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