「『南京事件』発展史」(冨沢繁信、展転社2007)を読んだ。
この本は、南京事件には①原初的南京事件、②ベイツ南京事件、③東京裁判南京暴虐事件、④朝日新聞南京事件の4つがあり、「段階的に拡大発展していった」という(9ページ)。
簡単にいうと、「(おさかな注=1938年)一月末までは『安全地帯』の中でしか事件は起こらず、南京の事件の原初的な姿は『安全地帯内事件』であって、『南京事件』ではないということはたいへん重要なこと」(11ページ)だそうだ。それなのに中国政府や、日本の研究者が安全地帯の外に話を広げたりするなど、おおげさに騒ぎ立てたといいたいようだ。
冨沢氏は、上記の④にいたっては、「内外呼応して声が大きくなり、利用の仕方がうまくなったものといえる」(25ページ)という。中国では「虐殺人数が三十万人に拡大され」(同前)るなどし、日本では「大虐殺を信奉する人々は、(中略)何れも中国のいうところを順序よく並び替えているだけで、後はレトリック」(26ページ)だと。
いまの日本で30万人説をわざわざとなえている人は少数だと思うので、30万人説は横に置く。とりあえず、このような南京事件「発展」論(針小棒大論?)について、根本的な誤りを認めざるをえないので、感想を述べる。
著者は11ページで、「一月末までは『安全地帯』の中でしか事件は起こらず」と主張する。その根拠になっているのは、下記のものである。(『日中戦争史資料9南京事件Ⅱ』を参照すると、ティンパーリー『戦争とは何か』の附録Aおよび附録Cに対応している)
----「(イ)ここに記録された事件は南京安全区で起きたものだけである。南京のこれ以外の場所は一月末まで事実上無人状態となっていたのであって、この期間中、ほとんど外国人の目撃者がなかったということである。(ロ)『南京安全地帯の記録』によって日本軍の占領後二ヶ月間に何が起こったかが余すことなく明らかにされる」(『日中戦争史資料9南京事件Ⅱ』洞富雄編『戦争とは何か』一〇三頁、一一六頁)----
そして、安全地帯の外には住民はいなかったのだから事件は起きるはずないという論理に、冨沢氏はやたらしがみつく。南京事件研究の第一人者、笠原十九司氏への批判として、135ページから、またもやつぎのようにいう。
----「前述のように、笠原氏は資料をつまみ食いし、体系的に全体を研究することをしなかったので、南京事件研究の最も大事な基本的認識に到達することができなかった。即ち、『南京事件は南京市内の一部に過ぎない安全地帯で起こった事件である』との認識である。換言すれば『南京事件の舞台は安全地帯である』との認識である」----
ところで、人間の認識は、はじめから事物のすべてを正しく把握できているわけではない。「日本は豊かな国と思っていたけど、他の先進諸国に比べて実は購買力平価で見ると労働者の賃金は低かった」とか、「彼はまじめな人だと思っていたのに、実は影でギャンブルしまくって、膨大な借金があった」などはその典型だ。
実際、夏淑琴氏をはじめ、南京事件当時、まだ安全区に非難していなかった人の証言もある。マギー牧師は当時の被害者をフィルムにおさめたが、その彼がそのフィルムにつけた解説にも、安全区以外にも住民がいたことを示す証言が付されている。
また冨沢氏が引用した文献『日中戦争史資料9南京事件Ⅱ』には、「ニューヨーク・タイムズ」1937年12月18日号に掲載されたF.ティルマン・ダーディン記者の「記者は上海行きの船に乗る直前、バンドで二〇〇人の男子が処刑されるのを見た」という記事も紹介されている(281ページ)。「バンド」とは埠頭の事で、揚子江沿いのことだ。南京安全区は城内であり、当然揚子江沿いではない。この処刑は1937年12月15日のことだとされている。
さらにこれまでの南京事件「論争」では、これまで下関(シャーカン)、幕府山など、安全区以外・城外などでの国際法違反の虐殺がなかったかどうかもずいぶんと問題にされてきたはずなのに、なぜ「安全区以外では人が住んでないんだから、事件が起こりようがない」という論理に固執するのだろう。冨沢氏は、捕虜を連行して殺害したかどうかが取り沙汰された「論争」の経緯もご存知のはずだ。人がたとえ住んでいなくても、連行していって無抵抗の人間を殺すことはできる。「安全区以外は人が住んでいない」という論理が仮に真実だったとしても、だから安全区以外では事件がありえなかったというのは、論理が飛躍している。
それでいて自分は他人に対して「資料をつまみ食い」してると批判するのだから、おかしくないか?
あと、冨沢氏は、「『南京安全地帯の記録』においては事件を総体として考え、全体として事件の性質を議論するという態度が見られない」(12ページ)とまでいうが、当たり前である。連日、つぎつぎと被害が通報されて現場にかけつけ、病院に負傷者・被害者が運ばれて、日本軍を何とかしろと何度も日本大使館に要求して対応に追われているときに、事件を記録することはできても、事件の性質を総括・評論する暇などあるのか考えてみたほうがいい。
なお、どうでもいいことを二点加えておく。
第一に、夜の事件だと、なぜか日本のしわざではないという奇妙な論理である。
----「『南京安全地帯の記録』には放火は全体で五件しか記述されていない。うち三件は夜の事件であり、日本兵の犯行ではない」(50ページ)
この論理はほかにも出てくるが、夜は日本兵は外は出歩かないから、放火なんてするわけないじゃないかという程度の論理だ。ずいぶん品行方正であることをかたく信じているとでもいうのか、善意に基づいた裏づけのない解釈だ。夜だと日本兵じゃないという明確な根拠をしめすべきだろう。
第二に、日本語の下手さだ。
----「『安全地帯の記録』には第五〇号文書一九三七年十二月二六日付のベイツの文章として搭載されているものである」(16ページ)
搭載? 秘密兵器か? 単なる誤植?
----「筆者がある研究会で、この四番目の笠原氏の意見を報告したとき、会場内には失笑のさざ波が揺れた」(141ページ)
「さざ波が揺れる」というのは日本語としてスマートではないだろう。さざ波は「立つ」「広がる」もので、しいて言えば「さざ波に揺れる」のだと思うが? この場合、「失笑のさざ波がおこった」ぐらいか?
----「平成八年十二月三日、『新しい歴史教科書をつくる会』はその発足を告げる記者発表会を赤坂の東急ホテルで開催した。(中略)トイレの大きい方の便所には、「つくる会」の支援者で当日手伝いに来ていた人たち(筆者もその一人であった)の一人が用を足していた。記者たちの大きな声が彼には筒抜けであった。以下は彼が伝えてくれた忘れることのできない、その内容である。/『ああ、俺たちの王国の時代は終わった』と一人が言うと、他の一人がこれに続けて言った。『手塩に掛けて育てたのに、残念だなあ』。/筆者はこれを聞いて、この人たちの手に日本の歴史を渡すことはできない、と深く肝に銘じたのである。これが筆者の南京事件研究を志した発端である」(123-124ページ)
何が王国なのか、何を手塩にかけて育てたのか、さっぱり意味がわからない。もう少し詳述すべきだろう。
最後に、僕が指摘するまでもなく、笠原氏を論難した冨沢氏は、現在、笠原氏の著作=「南京難民区の百日」は「手に入らない絶版」(125ページ)といっている。冨澤氏は今回の著作でずいぶんとパソコンにデータを入れて、分析に使っていることを力説しているが、彼のパソコンはインターネットにつながっていないのだろう。Apemanさんがいうとおり、岩波現代文庫で絶賛?発売中である。ネットで調べればすぐわかることだ。下記URL参照。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070121/p2
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