現段階で反省できない段階にある人に、反省を求めつづけるだけでは非合理的ではないだろうか
反省できない成長段階(発達段階)の人間に、反省を求め続けるだけでは、非合理的ではないか。そう思います。
光市母子殺害事件のことです。広島高裁で死刑判決が出ましたね。
「少年だからといって、凶悪犯罪をはたらいたのだから厳罰を受けるべきだ」という論理は正当でしょう。でもそれが死刑でなければならないというのは、僕は短絡的だと思います。「死刑を回避するに足る合理的な理由がない」という趣旨の判決理由が述べられましたが、僕は現段階では、異を唱えます。
下記エントリを見ての感想なのですが(村野瀬さんのエントリ拝借します)、
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-389.html
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-396.html
上記エントリとテレビ報道を見ると、反省できない成長段階の人間に、本村氏は反省を求め続けているように見えるのです。
「反省しろ」といっても、精神発達が実年齢と比べて著しく未熟な人には、適切なケアがなされないかぎり、本当の反省などありえないのではないでしょうか? 少なくとも、被害者遺族が求めているような反省など望みようがありません。もちろん、死刑ではなくとも、どんなに最前をつくしても、心からの反省など訪れるかどうかわかりませんけど。
でも、弁護人いわく、家裁段階で、犯人は父親の暴力にさらされ、母の自殺を目撃し、精神発達がいちじるしく遅れていることが指摘されています。心の傷も深いでしょう。そんな人に、反省しろといっても、精神段階の成長・回復を得るための試みがない限り、困難ではないでしょうか。
死刑は、今回の場合、反省の芽をつむものにすぎないのではないでしょうか。今回の事件において、本村さんが求める反省を、むしろ遠ざける(もしくは永遠に訪れないようにする)ことが、死刑なのではないでしょうか。
死を前に反省するということはありえることだと思います。しかし、未熟だとされる精神状態について、ケアをし、本来の精神発達段階を取り戻す措置をしないままで、反省だけを求める。それは不合理であり、非現実的なのではないでしょうか?
今朝、ニュース番組で、「本村さん、9年間がんばりましたね」って某キャスターがいっていました。でもそういう言葉は、がんばりが正当だと思われる場合に使うべき言葉だと僕は思うし、本村さんのがんばり方は、僕は「合理的でない」と感じます。
単純に、少年は真摯に反省できる人格を獲得し得ていないという事実を、被害者遺族は自らの深い悲しみの感情から、かたくなに否認しているように見えるのです。
もちろん無期懲役で解決するとも思いません。正確には、無期懲役だけで解決はしないと思っています。
僕は、刑罰とは別の、更正の機会が元少年には求められると思います。のみならず、彼の精神状態に適応した、適切な措置、ケアがされることが、必要ではないでしょうか。
刑務所であれ、税金で食事を与えられ生活するなど、けしからん、という人もいます。その上、心のケアなど、何を不謹慎なことをいうのかと思う人もいるでしょう。
でもそれでは死刑でよいのか? それで解決するのか? 死刑はこの事件の場合、いまの日本社会で望みうる最前の償いではないのではないかとの疑念をいまのところ、僕は感じます。
もう少し自分でも勉強したいと思います。
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コメント
難しい問題だと思います。
ぼくの診療所でも患者さんたちが死刑当然といったような会話をしている人たちがいるのを耳にしますが、どうも違和感を感じていました。
本村さんの話を聞いていてもものすごく違和感を感じていたのはあまりにも感情的な印象を受けたからだったのです。
今の日本って死刑判決をすごく軽々しく捉えているように感じます。
ちょっと勉強不足なので少し刑法についても本でも読んでみたいと思います。
投稿: Kenny | 2008年4月24日 (木) 01時43分
そうですね、難しいところです。学生時代は法学部だったのに、あまり死刑や死刑廃止論について勉強しなかったし(苦笑)。
学生時代に買った「刑法概論」のテキストでも読もうかな。死刑廃止論や、心的外傷などについても勉強しなくちゃかもですね。
こうやっていろんな問題を考えはじめると、宿題だけ増えます。・・・何が宿題なのかもだいぶ覚えきれなくなってきました(笑)。
投稿: おさかな | 2008年4月24日 (木) 12時03分