秋葉原の事件について。
たくさんの方が亡くなった。たくさんの人が傷ついた。多くの人が恐怖に陥れられた。僕も「おちおち街を歩けないようになるのでは」と危惧を抱かされている。この事件をどう受け止めていいのか心の整理がつかないが、犯人の蛮行は許せない。
同時に、事件をめぐって、僕は二つの感想を持つ。
■1■
第一に、事件の背景に人間を孤立させたり、人としての尊厳を損なうような社会の構造があること。学歴主義や、派遣労働など。まあ、僕がいわずとも社会の構造が背景にあるって思ってる人は普通にいるだろうけど。
容疑者は派遣労働者であり、リストラされるとの不安にさらされていたのではないかとの報道もある。同時に事件の引き金となった、出勤すると作業服(つなぎ)がなかったトラブルは、容疑者にこれで解雇されると思わせたのではないかとの報道もある。リストラは、自らの生存条件を失うことを意味している。生存条件を損なうことへの不安や恐怖が、強いストレスになっていたのだろう。
犯行前、携帯サイトに友だちがいない、というようなことも書いていたようだ。
http://s01.megalodon.jp/2008-0610-1538-43/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080610-00000059-mai-soci(魚拓)
資本主義の発展にともなって核家族化もすすんだし、孤立する日本人は増えたと思う。実家から遠く離れてはたらくことも珍しくなくなった(僕もそうだ)。身にこたえることがあっても、誰にも相談できなかったのだろう。
切り離され、相談相手もおらず、いつ首を切られるかわからない。友人もいない。そうした中で自分という人間が認められない、世間に相手にされていないという屈折した感情、自尊心を傷つけられたような屈辱感を容疑者は持っていたのではないか。
上記(魚拓)を見る限り、周りのフォローも受け入れず、手がつけられない感じもするが、劣等感を募らせすぎて、周りが何をいっても「この俺の悩みがお前らにわかるものか」と思っていたかもしれない。
http://s04.megalodon.jp/2008-0610-1727-28/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080610-00000914-san-soci(魚拓)
また、リストラされることは、自分が排除されることだ。お前は会社に、社会に必要ないといついわれるのかと思っていたのだろう。「出勤したらつなぎがなかった」トラブルでも、その会社だけというより、世間一般が自分を認めず、排除するように思ったのではないか。青少年期はとりわけ、自分が他人に認められたい、認められる人間になりたいと思う時期でもあるし、リストラされるのではないかという不安感、疎外感、圧迫感は相当なものだったのでは。
http://s01.megalodon.jp/2008-0610-1730-26/excite.co.jp/News/society/20080609120300/20080609E40.040.html(魚拓)
一般的に貧困が増えると犯罪が増加するといわれる。不安定雇用をなくすとりくみを本格的に行わなければ、犯罪防止策としては片手落ちではないかと僕は思う。貧困が犯罪を増やすという論理は、僕はまだほとんど勉強できていないけど、正義を守れ、犯罪はいけないという「戒め」だけでは、安心して暮らせる社会は来ないのでは。「そんなことしちゃダメだ!」といっても、人間の尊厳や生存権を損なう「ストレッサー」がある限り、予想外の行動をとる人はいるだろう。
今回の容疑者の場合、犯行を大々的におこなうことで、自分の存在を軽視している(と思っている)世間を見返してやろうと思ったのだろう。ただ、会社に突撃せず、秋葉原に突撃したっていうところに、彼の弱さがまた露呈しているように思う。まったくの推測だが、“秋葉原なら自分のような人間でも少しは許容される”という心理が働いていていないか。つまり「世間に相手にされない人間も許容される秋葉原」と思っていなかっただろうか? 世間が嫌になった腹いせなのに、自分を許容して欲しいと思って秋葉原に突っ込んだ。違うだろうか? 秋葉原は普通の人もいく街だけど、自分に自信のない人も許容する街という印象を僕は持っている。
■2■
第二に、死刑は当然だという声も出ているようだ。だが僕は、まだ死刑は当然だと判断できない。そもそも死刑自体、刑罰として存在していていいのかとの議論もある。慎重に考えたい。
なぜ慎重に考えたいか? 事件から見れば僕は他人だからだ。他人であるからこそ余計に僕は、「死刑が当然だ」という意見はまだ持てない。相手が凶悪犯罪者だからといって「死んで当然だ」ということは、命を損なうことに違いはない。またそのように主張することは、下手すると、不条理なことが裁かれない社会への不満・ストレスを「死刑にしろ」と叫ぶことで発散させることになりかねないと思っている。正義が通らない社会への鬱積した気分を、勧善懲悪のヒーローものの映画やドラマで発散させるように、犯人への糾弾ではらすことになりやしないかと思うのだ。
僕は不安にさらされた(さらされている)一人という意味では、決して他人ではない。秋葉原は僕の日常にとって、遠い存在ではない(勤務地が徒歩圏内)。しかし、事件当日僕は秋葉原にはいなかった。被害者も身内にいない。そのような僕が「死んで当然だ!」と叫ぶことには躊躇がある。犯罪が裁かれるのは、犯罪のない社会を築くためであり、被害者と被害者家族への償いや権利保障のためである。他人のストレス発散のためじゃない。ストレス発散のために「死ね」というのなら、容疑者に一歩僕は近づくことになる。それだけは戒めたい。もっとも犯罪を恐れるからこそ、死刑になってほしいと願う人も少なくないだろうけど。…難しい問題だな。
【余談】
最後に余談だが、自民党の国会議員牧原秀樹氏のサイト。
http://www.hmacky.net/2008/06/post-1885.php
こうした事件の犯人を憎み、極刑を課すのは当然だが、これだけ頻発するというのは単なる個人的要因だけなのかという疑問が湧いてくる。街中から自然を破壊し、子供たちの遊び場所を奪い、命の大切さを知る機会が減り、むしろテレビゲームなどで残虐に人を殺す楽しみを小さい頃から植えつけるという背景がないかどうか検討が必要だろう。貧しく苦しい時代と比較して人間が弱くなっており、世の中や周囲を逆恨みする人が増えていることも問題である。高齢化社会の深刻さを考えず、ひたすら「お年寄りいじめ」などと情けない批判と悪口を繰り返す政治もこうした「すべて他人のせい」とする風潮を蔓延させている原因かもしれない。
意見を全否定するつもりはない。だが「極刑を課すのは当然」? 死刑制度を廃止すべきだという国際的な動きにどう答えるのだろうか。
同時に自分が社会的弱者を生み出した支配者の側におり、足蹴にしている当事者だという認識がなさすぎる。「他人のせい」にしているのは、あなたではないのか。人を虐げておいて、正義を掲げているつもりなのだろうか。こんな程度の認識の政治家のもとで、犯罪は減っていくだろうか? 不安だ。犯罪防止のために、やっぱり社会の構造もメスを入れるべきなんじゃないのかなあ。
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